くるり

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简介

小档案 メンバー 岸田繁(きしだ しげる、1976年4月27日 - ) ボーカル、ギター。京都府京都市左京区出身。血液型:O 佐藤征史(さとう まさし、1977年2月1日 - ) ベース、ボーカル。京都府亀冈市出身。血液型:O 元メンバー 森信行(もり のぶゆき、1975年6月20日 - ) ドラム。兵库県猪名川町出身。血液型:B。 クリストファーマグワイア(Christopher McGuire、1975年11月28日 - ) ドラム。アメリカ合众国ミネソタ州ミネアポリス出身。 大村达身(おおむら たっしん、1975年12月17日 - ) ギター、ベース。兵库県稲美町出身。血液型:O 小简介 くるり(QURULI)は、日本京都府京都市出身のロックバンド。ボーカルギター担当の岸田繁、ベース担当の佐藤征史の2人から构成されている。现在まで7枚のスタジオアルバムと19枚のシングルなどをリリースし、约80万枚のセールスを记录している。公式ファンクラブ名は「纯情息子」である。 1998年にシングル『东京』をリリースしメジャーデビュー。1999年にオーソドックスなバンドサウンドが特征の1stアルバム『さよならストレンジャー』をリリース。2000年にオルタナティブサウンドに接近した2ndアルバム『図鉴』、2001年にはテクノダンスミュージックに影响を受けた3rdアルバム『TEAM ROCK』、2002年にはエレクトロニカサウンドを展开した4thアルバム『THE WORLD IS MINE』、2004年には再びバンドサウンドに回帰しつつもジャズの要素を取り入れた5thアルバム『アンテナ』、2005年にはザフーやビートルズを代表する60年代のUKロックに影响を受けた6thアルバム『NIKKI』、2007年には遂にクラシック色の强い7thアルバム『ワルツを踊れ Tanz Walzer』をリリースしている。 このように多くの音楽的な要素を取り入れアルバムごとに违った颜を见せるバンドである。 大事件 结成からメジャーデビュー(1996年-1998年) 1995年4月、岸田繁が立命馆大学に入学。大学の音楽サークルであるロックコミューンに入り森信行や大村达身と出会う。佐藤征史とは立命馆高等学校の1年のときに出会い、大学では同じサークルに入った。その后、岸田と佐藤が后のくるりの原型となるバンドを结成。このときのメンバーは岸田と佐藤のほかに别のボーカルとドラマーがいる「毒猿」という4人体制のバンドであった。岸田はこの顷から曲を作ってこのバンドで演奏していたが、あまりいいバンドではなかったとも语っている。ほどなくしてバンドのドラマーが辞めたため森を诱う。そしてバンドのボーカリストも辞めたため岸田がボーカルをとることになり以后、3ピースバンドで活动してゆくことになる。ちなみにメンバー3人は、平行して别のバンドにも参加していた。 1996年2月、発売8曲入りカセットテープ『くるりの一回转』を発売し完売。9月にアマチュアバンドのコンテストの赏金10万円目的で正式に结成。しかし、岸田の话によると「普通に结成を持ちかければいいものを、当时凄くひねくれていたので、素直に言えず、赏金稼ぎという建前で结成を持ちかけた」という。演奏曲は『モノノケ姫』『夜行列车と乌瓜』『雫が咲いたら』(未発表曲。ワルツ调らしい)。くるりは见事优胜し10万円を获得したものの、そのすべてを打ち上げとパチンコに使った。 1997年には、ラジオ番组にも出演する。同年7月には第1回フジロックフェスティバルをサークル仲间たちとともに観覧、台风の直撃などで色々とひどい目にあったらしい。程なくしてシュガーフィールズ原の东京の自宅スタジオでレコーディングをする。BAD NEWS RECORDSにデモテープを送ったところ気に入られ、11月にインディーズ1stアルバムである『もしもし』を発売。 1998年1月から、ライブハウスツアー退屈退治を11月まで行う。また5月にはインディーズ2ndアルバムである『ファンデリア』を発売。同月に行われた大阪城音楽堂でのイベント「SWEET LOVE SHOWER」のオープニングアクトや、スピッツ、サニーデイサービスらと「ロックロックこんにちは」に出演。7月には会场を东京に移した第2回フジロックフェスティバルを観覧。 さよならストレンジャーから図鉴(1999年-2000年) 1998年10月にはビクターエンタテインメントよりデビューシングル『东京』をリリースしメジャーデビュー、同月のFM802のヘビーローテーションナンバーに选ばれる。11月に行われたFM802のイベントであるGottcha!に出演。 1999年2月、2ndシングル『虹』をリリース。3月に佐藤と森は无事大学を卒业、岸田は留年することとなった。4月には佐久间正英をプロデューサーに迎えて制作された1stアルバム『さよならストレンジャー』をリリース。5月にはワンマン全国ツアー、三日で激ヤセ 惊异のキノコパワーを敢行し全公演SOLD OUT。ツアー后は共同プロデューサーに根岸孝旨を迎えて次回作のレコーディングを开始。7月にはフジロックフェスティバルに出演しその他の夏のイベントにも出演した。8月、岸田が前期卒业式で大学を卒业。同じく8月には3rdシングル『青い空』、11月には4thシングル『街』を立て続けにリリース。12月にはワンマンライブツアーもうじき平成12年を敢行した。 2000年1月、ジムオルークらとのコラボレーションに挑んだギターロック色の强い2ndアルバム『図鉴』をリリース。4月から「図鉴」発売记念ツアー世田谷线旧型车輌を残そうキャンペーンを敢行。同月には5thシングルである春风をリリース。8月には第1回ROCK IN JAPAN FESTIVALやサマーソニックなどの夏のイベントに出演する。 TEAM ROCK(2000年-2001年) 2000年8月中旬から徐々に次回作のレコーディングに入る。曲の原型はできあがっていたが自分たちでリミックスしてもイマイチの出来であったため、エンジニアの高山彻にリミックスを依頼し曲が完成。10月に6thシングル『ワンダーフォーゲル』をリリース。11月からはThe Dismemberment Planとのカップリングツアーである 百鬼夜行を敢行。 2001年1月、SUPERCARのフルカワミキがコーラスとして参加した7thシングル『ばらの花』をリリース。2月に実験的要素を含んだ3rdアルバム『TEAM ROCK』をリリースした。4月から3rdアルバム発売记念ツアーTEAM PARTY 2001~&~TEAM PARTY 200,000,001を敢行。7月にはフジロックフェスティバルのFIELD OF HEAVENに出演。8月にはライジングサンロックフェスティバルへの出演やナンバーガールとの対バンなどを行う。しかし、上记のツアー中メンバー间に轧轹が生じたため、その打开策として外部から新たにメンバーを招聘することとなる。その人物こそ后に正式メンバーとなる大村达身である。しかし当时大村はくるりの曲をまったく覚えておらず、岸田らメンバーは交通费だけ払って帰ってもらおうとしていたそうである。しかしその后、新たな曲作りをする上で大村はくるりに居なくてはならないメンバーとなり、この年の夏のフェスティバルよりサポートメンバーとしてライブに参加、まもなく正式メンバーとしてくるりへ加入することとなる。 THE WORLD IS MINE(2001年-2002年) 2001年秋からくるりは初めての海外レコーディングを行う。この时、アメリカ同时多発テロ事件の影响で出発がひと月延期することとなったが10月にはロンドン郊外にあるサイロを改造した「ブラーストリート」スタジオでエンジニアプロデューサーのニックハナンとともに楽曲制作とレコーディングを开始。约1ヶ月の滞在の间に次回作収录予定の曲が多く制作された。帰国后は都内のスタジオでレコーディングが継続されたが、机材トラブルなどで顺调とはいかなかった。それでもエンジニアの上原キコウ、高山彻、中村研一に加えイギリスから呼び寄せたニックハナンとともにレコーディングをすすめた。 多忙なスケジュールの中のレコーディングではあったが2002年2月にくるり最大のヒット曲となった『ワールズエンドスーパーノヴァ』をリリース。レコーディングスケジュール1ヶ月オーバーし何度もリミックスをやり直した后に3月、4thアルバムである「THE WORLD IS MINE」をリリースした。3月31日から京都磔磔を皮切りに「くるりライブツアー2002 ~ うんぽこ どっこいしょ ~ 」を敢行。そのツアーの间の5月にはシングル『男の子と女の子』をリリースしている。ツアー终了后の7月、ドラマーの森がバンドを脱退した。森の脱退后はサポートメンバーとして台太郎を迎えて活动を継続した。9月からTHE DISMEMBERMENT PLANとアメリカ东海岸ツアーを行う。ツアー后はボストン郊外にある「ロングビュースタジオ」に滞在しそのとき后にメンバーとなるクリストファーマグワイアと初めて颜を会わせている。帰国后はくるり主宰のレーベルであるNOISE McCARTNEY RECORDSを设立した。12月にはくるり主催のイベント、「百鬼夜行2002」を开催。矢野顕子、远藤贤司、レイハラカミらと共演し全国を回った。 ジョゼと虎と鱼たち(2003年) 2003年1月から4月までくるりは映画サウンドトラックの制作を行う。「ジョゼと虎と鱼たち」と「リアリズムの宿」の2つのサントラを同时进行で制作するというもの。「ジョゼと虎と鱼たち」の主题歌である『ハイウェイ』とサウンドトラックが同年11月に発売されている。また、「リアリズムの宿」のテーマ曲である『家出娘』はくるりのベスト盘である『ベスト オブ くるり -TOWER OF MUSIC LOVER-』にてはじめて音源化された。 アンテナ(2003年-2004年) 2003年5月、スコットランドグラスゴーに渡ったくるりはエンジニアプロデューサーであるトニードゥーガンのもとレコーディングを开始。サポートドラマーには后にくるりのツアーに参加することとなるクリフアーモンドを迎えて『RACE』や『グッドモーニング』、『HOW TO GO 』をレコーディングした。帰国后、くるりのプライベートスタジオであるペンタトニックにて『HOW TO GO』をリテイクした。同年の夏からはクリストファーマグワイアをサポートドラマーに迎えてフジロックフェスティバルのホワイトステージに出演した。そのほかにも夏のフェスティバルに出演している。9月に1年半ぶりとなるシングル『HOW TO GO』をリリース。そのままマグワイアとともに次回作に向けてセッションやレコーディングを重ねていった。 2004年2月、シングル『ロックンロール』をリリースそして3月に5thアルバムである『アンテナ』をリリースした。3月30日より京都磔磔から「くるりワンマンライブツアー2004~安心しろ、秘孔ははずしてある~」をスタート。初の日本武道馆公演を含むツアーとなった。7月には初のビデオクリップ集である「くるくる鮨」を、9月にはツアードキュメンタリーフィルムである「くるくる节」を発売した。さらなるレコーディングやライブを行おうとするも10月にクリストファーマグワイアが脱退した。再び台太郎をサポートドラマーに迎えて学园祭ツアーを行う。12月、京都大学西部讲堂にて岸田と京都大学の学生たちが第1回みやこ音楽祭を开催。 NIKKI(2005年-2006年) 2005年1月、岸田と佐藤はCoccoとのプロジェクトバンドであるSINGER SONGERを堀江博久、台太郎とともにスタートさせる。途中、岸田が入院するということもあったがレコーディングを进める。2月、14thシングル『BIRTHDAY』をリリースした。3月、ニューヨークに渡り次回作のための楽曲制作を行う。4月にも伊豆などで同作业を行った。5月、再び渡米。以前、セッションなどをしたボストンにあるスタジオ「ロングビュー」でレコーディングを开始した。约1ヶ月半の滞在で10数曲をレコーディングした。5月末にはSINGER SONGERのシングル『初花凛々』がリリースされている。6月半ば、そのままロンドンへ向かいプロデューサーのリアムワトソンとともにレコーディングを再开。今回のレコーディングでは岸田の意向により60年代のレアなアナログレコーディング机材を使用している。6月末にはSINGER SONGERのアルバム『ばらいろポップ』がリリースされた。7月、レコーディングを终えたくるりは帰国し夏のフェスティバルに出演。フジロックフェスティバルではメインステージであるグリーンステージに出演、ROCK IN JAPAN FESTIVALではSINGER SONGERで出演した。8月に15thシングル『Superstar』、9月に16thシングル『赤い电车』、10月に17thシングル『Baby I Love You』と3ヶ月连続でシングルのリリースが行なわれた。9月29日からはサポートメンバーにクリフアーモンドと堀江博之を迎えてくるりワンマンライブツアー2005 ~はぐれメタル纯情派~を开催。11月には6thアルバム『NIKKI』をリリースした。12月にはCOUNTDOWN JAPANに出演。最大规模のEARTH STAGEにおいて年越しライブを担当した。 2006年1月には追加スケジュールであるくるりワンマンライブツアー2006 ~はぐれメタル魔神斩り~を日本武道馆公演を皮切り开催。1月31日まで続いた。 ベスト オブ くるり(2006年) 2月からくるりはRIP SLYMEとのコラボレーションに入る。休暇も交えつつレコーディングをすすめ7月にシングル『Juice』をリリース。同じく7月から「くるり対バンツアー2006 ~毎日が地蔵盆~」をスタート。テルスターやLucky Lips、チャットモンチーなどと共演する。そして7月26日にくるり初のベスト盘となる『ベスト オブ くるり -TOWER OF MUSIC LOVER-』をリリースした。结成10周年の2006年において自分たちを振り返る意味で、レコード会社に愿い出てリリースしたものである。8月には6年ぶりのサマーソニックをはじめとする夏のフェスティバルに出演。ROCK IN JAPAN FESTIVALでは岸田が体调を崩しつつもメインステージであるGRASS STAGEで1日目のトリを务めた。8月下旬からは京都系ミュージシャンのコンピレーションアルバムの准备をはじめた。9月からは全国のZeppを回ったくるりワンマンライブツアー 2006 ~まZEPPご饭!~を敢行した。11月には先述のコンピレーションアルバム『みやこ音楽/V.A.』をNOISE McCARTNEY RECORDSよりリリース。くるりは『五月の海』という曲を提供している。このころからサポートドラマーとして菊地悠也が参加している。时を同じくして次回作のための楽曲制作に入った。12月にはウィーンに飞び、レコーディングスタジオの下见を行った。このときドイツでさまざまミュージシャンのマネジメントを行っているガッツという人物と会っている。12月末にCOUNTDOWN JAPAN 06,07に出演。このライブを最后にギタリストである大村が脱退した。 ワルツを踊れ Tanz Walzer (2007年) 2007年1月よりスタジオペンタトニックにてプリプロダクションを开始。すでにこの时点で多数のアイディアがあがっていた。2月、レコーディングのためウィーンへ飞ぶ。フィードバックスタジオにてフランス人プロデューサーであるステファヌ"アルフ"ブリア、ハウスエンジニアであるパトリックパルシンガーとともにレコーディングを开始。サポートドラマーには引き続き菊地が起用されている。2月の间はベーシックトラックを中心に录る。3月、FM802のイベントBEAT ITのため数日の帰国。その后すぐにウィーンに戻りレコーディングを再开。3月半ばからボーカル录音を含めたオーバーダブ作业を行う。また、パトリックパルシンガーの绍介でウィーン交响楽団のパーカッショニストであるフリップを绍介されストリングスアレンジを依頼した。4月、フィードバックスタジオに加えてハフナースタジオでもレコーディングを进める。5月からウィーンを离れアルフの本拠地であるフランスパリに移动。ボーカル录音やミックス作业を行う。パリ滞在最终日に曲顺を决め、ロンドンへ渡りメトロポリススタジオにてマスタリングを行うも仕上がりに満足できず、日本でマスタリングをすることに。5月末に帰国。5月30日、18thシングル『JUBILEE』がリリースされる。6月3日にマスタリングが终了しアルバムが完成。6月27日、7thアルバム『ワルツを踊れ Tanz Walzer』がリリースされた。サポートドラマーには引き続き菊地悠也、コーラス队にはザサスペンダーズを迎えて7月15日から户田市文化会馆を皮切りにくるり史上初となるホールツアー、くるり ホールツアー2007「ふれあいコンサート」を行った。7月末には台湾の野外フェスティバルに出演。8月末には3年ぶりに冲縄公演を行っている。9月23日、くるり主催の京都野外フェスティバルである京都音楽博覧会を开催。Coccoや小田和正、ジェイソンフォークナーが出演した。10月と11月はパシフィコ横浜公演などの准备に追われる。11月中旬にはくるりの公式HP上でライブで聴きたい曲のアンケートを行っていた。サポートメンバーにはギターに藤井一彦とあらきゆうこを迎えて12月のライブを行った。12月6日に京都の磔磔でワンマンライブ「TAKUTAKU DE KUTAKUTA」を开催。12月11日、12日にはパシフィコ横浜で「ふれあいコンサートファイナル」を行った。ふれあいコンサートでファイナルではサポートギタリストに佐桥佳幸を迎えている。12月29日にはCOUNTDOWN JAPAN EASTに、12月31日にはCOUNTDOWN JAPAN WESTに出演。年を越える前にベートーヴェンの交响曲第9番を演奏した。 Philharmonic or die (2008年-现在) 2008年2月、昨年の磔磔とパシフィコ横浜での公演を収录したくるり初のライブベストアルバム『Philharmonic or die』をリリース。1月中旬にはパシフィコ横浜公演のミックスをするため再びウィーンに飞び、『ワルツを踊れ』のエンジニアであったディーツとともミックスを行った。同年5月にはパシフィコ横浜公演を収录したライブDVD「横滨ウィンナー」がリリース。さらに9月3日にもニューシングル『さよならリグレット』をリリース。また、9月6日に京都音楽博覧会へ参加。

唱片公司 speedstar records
Alias くるり
Extra くるり
Name くるり
原始名称 くるり
国籍 日本
地区 日本
别名
  • quruli
  • quruli,团团转
  • 团团转
  • 歌手详细介绍

    <info><id>5651</id><desc><![CDATA[没听过QURULI,就没有资格谈论日本摇磙!90年代日本摇磙乐坛最重要乐团之一。]]></desc><basic><item><key><![CDATA[英文名]]></key><value><![CDATA[quruli]]></value></item><item><key><![CDATA[出道日期]]></key><value><![CDATA[1996年]]></value></item><item><key><![CDATA[职业]]></key><value><![CDATA[歌手]]></value></item><item><key><![CDATA[代表作品]]></key><value><![CDATA[强制换气装置、天线]]></value></item><item><key><![CDATA[组合人数]]></key><value><![CDATA[]]></value></item><item><key><![CDATA[现任成员]]></key><value><![CDATA[岸田繁、佐藤征史、大村达身、森信行、CHRISTOPHER McGUIRE]]></value></item></basic><group><member><item><key><![CDATA[艺名]]></key><value><![CDATA[岸田繁]]></value></item><item><key><![CDATA[国籍]]></key><value><![CDATA[日本]]></value></item><item><key><![CDATA[队内职务]]></key><value><![CDATA[主唱]]></value></item><item><key><![CDATA[职业]]></key><value><![CDATA[歌手]]></value></item></member><member><item><key><![CDATA[艺名]]></key><value><![CDATA[佐藤征史]]></value></item><item><key><![CDATA[国籍]]></key><value><![CDATA[日本]]></value></item><item><key><![CDATA[队内职务]]></key><value><![CDATA[贝斯手]]></value></item><item><key><![CDATA[职业]]></key><value><![CDATA[歌手]]></value></item></member><member><item><key><![CDATA[艺名]]></key><value><![CDATA[大村达身]]></value></item><item><key><![CDATA[国籍]]></key><value><![CDATA[日本]]></value></item><item><key><![CDATA[队内职务]]></key><value><![CDATA[鼓手]]></value></item><item><key><![CDATA[职业]]></key><value><![CDATA[歌手]]></value></item></member><member><item><key><![CDATA[艺名]]></key><value><![CDATA[森信行]]></value></item><item><key><![CDATA[国籍]]></key><value><![CDATA[日本]]></value></item><item><key><![CDATA[队内职务]]></key><value><![CDATA[鼓手离队]]></value></item><item><key><![CDATA[职业]]></key><value><![CDATA[歌手]]></value></item></member><member><item><key><![CDATA[英文名]]></key><value><![CDATA[CHRISTOPHER McGUIRE]]></value></item><item><key><![CDATA[国籍]]></key><value><![CDATA[美国]]></value></item><item><key><![CDATA[队内职务]]></key><value><![CDATA[鼓手离队]]></value></item><item><key><![CDATA[职业]]></key><value><![CDATA[歌手]]></value></item></member></group><other><item><key><![CDATA[从艺历程]]></key><value><![CDATA[96年 9月 QURULI结成\n   97年 于BADNEWS发表迷你专辑《强制换气装置》\n   98年10月 于Victor旗下子厂牌speedstar发表首张单曲《东京》\n   99年 2月 发行第二张单曲《虹》\n   99年 4月 发行首张专辑《再见 陌生人》\n   99年 5月 展开首次日本全国个人巡回 共7场演出全数SOUT OUT\n   99年 8月 发行第三张单曲《蓝天》;参加FUJI ROCK FESTIVAL等大型演出\n   99年 11月 发行第四张单曲《街》\n   99年 12月 展开日本全国个人巡回(共4场)\n   00年 1月 发行第二张专辑《图鉴》\n   00年 4月 发行单曲《春风》\n   00年 8月 参加SUMMER SONIC/ ROCK IN JAPAN等夏季大型表演活动\n   00年 10月 发行单曲《WONDERFUL 》\n   01年 1月 发行单曲《蔷薇花》获得J-WAVE TOKYO HOT100排行冠军(此首单曲日后出现在由妻夫木聪、柴崎幸主演人气日剧‘Orange days’之插曲受到高度询问!)\n   01年 2月 发行第三张专辑《TEAM ROCK》\n   01年 4月 展开全国巡回(共37场)\n   01年 5月 发行单曲《RIVER》\n   01年 7月 参加FUJI ROCK FESTIVAL造成入场人次超过限制的大盛况;大村达身以客席乐手参加演出\n   01年 9月 大村达身正式加入\n   02年 2月 发行单曲《World’s end super nova》\n   02年 3月 发行专辑《THE WORLD IS MINE》;展开全国巡回(共39场)\n   02年 5月 发行单曲《男生和女生》\n   02年 7月 鼓手森信行离团\n   02年 9月 与THE DISMEMBERMENT PLAN共同于美国展开巡回演出\n   02年 12月 成立自主独立厂牌NOISE McCARTNEY RECORDS\n   03年 1月 参加MANIC STREET PREACHERS于东京公演的演出\n   03年 7月 邀请CHIRSTOPHER McGUIRE担任客席鼓手;参加FUJI ROCK、RISING SUN等诸多音乐祭;与THE DISMEMBERMENT PLAN、John Vanderslice举行共同巡回演出\n   03年 9月 发行单曲《HOW TO GO》\n   03年 11月 首次担任电影音乐制作同时并发行原声带《JOZEE与虎与鱼群》(妻夫木聪、池胁千鹤主演)与主题单曲《highway》;CHIRSTOPHER McGUIRE正式加入\n   04年 2月 发行单曲《Rock’n roll》\n   04年 3月 发行第五张专辑《天线》\n   04年 4月 展开全国巡回(共45场)\n   04年 7月 发表首张影像作品PV集 DVD\n   04年 9月 发表首张现场演出影像作品DVD\n   04年 10月 鼓手CHIRSTOPHER McGUIRE离团\n   04年 12月 与矢野显子共同演出\n   05年 2月 发行单曲《BIRTHDAY》\n   05年 5月 岸田繁、佐藤征史与Cocco、堀江博久、台太郎组成新团SINGER SONGER发表首支单曲《初花凛凛》\n   05年 6月 SINGER SONGER发行首张专辑《粉红流行乐》\n   05年 7月~8月 邀请美籍的Cliff Almond、日本的沼泽尚担任客席鼓手,参加SET STOCK’05、FUJI ROCK、RISING SUN ROCK等音乐祭演出\n   05年 8月 发行单曲《Superstar》\n   05年 9月 发行搭配京滨急行电铁电视广告主题曲之单曲《红色电车》]]></value></item><item><key><![CDATA[音乐作品]]></key><value><![CDATA[1. Bus To Finsbury\n   2. Baby I Love You(日本公信榜第4位单曲)\n   3. Superstar(Album Edit)\n   4. 雨停了\n   5. Tonight Is The Night\n   6. Birthday\n   7. 热闹的祭典\n   8.冬之亡灵\n   9.红色电车(京滨急行电铁CM曲)\n   10.Long Tall Sally\n   11.虹色的天使\n   12.Ring Ring Ring!\n   13.(It’s only)R’n R Workshop!\n   DVD (QURULI VIDEO CLIPS 2005)\n   1. Birthday\n   2. Superstar\n   3. 红色电车\n   4. Baby I Love Yo]]></value></item></other></info>

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